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【訃報】北極点を制した伝説の“女優冒険家” 和泉雅子さん死去―その知られざる素顔とは?

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🔥とりコレ3行まとめ

  • 和泉雅子さん(77歳)が原発不明がんで死去。女優・歌手・冒険家として活躍。

  • 1989年、日本人女性で初めて徒歩で北極点到達。世界初の偉業。

  • 映画スターから“命懸けの極地挑戦”へ。波乱万丈の人生が注目を集める。


スクリーンから氷原へ―その人生、想像を超える

10代で一世を風靡した日活の青春映画スターが、40代で命を賭けて北極を目指す――。

まるでドラマのような転身を遂げた和泉雅子さんが、2025年7月9日、原発不明がんのためこの世を去りました。

この記事では、女優としての成功、冒険家としての偉業、そして知られざる素顔まで、彼女の一生をわかりやすく振り返ります。

きっと読み終わる頃には「この人、本当にすごい…」と思えるはずです。

🎬 映画界のアイドルからスタートした波乱の人生

子役から日活スターへ

和泉雅子さんは1947年、東京都中央区で生まれました。10歳で子役デビューし、14歳で日活にスカウトされ女優人生を本格スタート。

1960年代には吉永小百合さん、松原智恵子さんと並んで“日活三人娘”と称される人気を誇ります。

代表作には『非行少女』『ガラスのジョニー』『嵐を呼ぶ十八人』などがあり、その演技力と存在感で国内外から注目されました。1963年には『非行少女』でモスクワ国際映画祭の金賞を受賞し、国際的にも評価を獲得しています。

歌手としても成功

女優業と並行して歌手活動も展開。「二人の銀座」や「東京ナイト」などがヒットし、当時の若者文化を彩りました。

和泉さんは、ただの清純派アイドルではなく、多彩な才能でエンタメ界を駆け抜けていたのです。


🏔 女優から冒険家へ――異例すぎる第二の人生

なぜ北極を目指したのか?

転機となったのは1983年。テレビ番組の企画で南極を訪れた際、「北極にも行ってみたい」と思ったのがきっかけだったそうです。

そこから彼女は、氷上での移動訓練、資金集め、講演活動などを重ね、1985年に初の北極点挑戦を実行。

資金難や過酷な環境により途中で断念したものの、この挑戦は彼女の人生を大きく変えるものでした。

世界初の徒歩北極点踏破(1989年)

そして1989年、ついに悲願の北極点到達を成し遂げます。スノーモービルなどに頼らず、スキーとソリで自力踏破。約800kmを62日間かけて進む過酷な道のりでした。

これは日本人女性として初めての快挙であり、しかも「徒歩」での到達は世界初という歴史的偉業。テレビでは見せなかった、強さと執念が凝縮された挑戦でした。


🧊 命がけの挑戦、その裏にあった苦悩と信念

資金難・孤独・厳寒との戦い

北極遠征には億単位の費用がかかり、借金を背負うこともありました。また、極地での生活は命の危険を常に伴い、氷の割れ目、ブリザード、野生動物など、あらゆる自然との戦い。

それでも彼女は、冒険のたびに「自分の限界を知りたい」「本物の自分と向き合いたい」と語っていました。

スターの座にあぐらをかくことなく、より厳しい道を選んだその姿勢に、多くの人が心を打たれたのです。


🤔 和泉雅子さんのこと、もっと知りたくない?

Q1. なんでそこまでして北極に行きたかったの?

彼女は「人間が生きている意味を知りたかった」と語っています。名声や富では満たされない“本当の自分”を、自然の中で見つけたかったのかもしれません。

Q2. 女優業は引退していたの?

北極点到達後も一部の映画やテレビには出演していましたが、メインは講演活動や著述活動でした。代表著書『笑ってよ、北極点』では、冒険の舞台裏や心の葛藤が綴られています。


📝 まとめ:挑戦を恐れない生き様に拍手を

和泉雅子さんの人生は、“挑戦”という言葉がぴったり。若くして映画界の頂点を極めた後、あえて未知の道へと進み、誰もが無理だと思った北極点を制しました。

77歳での旅立ちは早すぎますが、その生き様は多くの人の記憶に刻まれるはず。

「無理」と言われても、自分の夢に賭ける勇気――マコさんはその大切さを、身をもって教えてくれました。

どうか安らかに。そして、ありがとうございました。