【頼朝“敗走”の祈りが横浜に残る】南北朝1357年銘の銅造・聖観音菩薩坐像を新指定 石橋山合戦の逸話も再注目
とりコレ3行まとめ
・横浜市が「銅造 聖観音菩薩坐像」を市指定文化財に指定
・像は南北朝時代・延文2年(1357)銘、像高31.9cmの金銅仏
・石橋山合戦の“正観音”逸話と重なり、観音信仰の歴史が再び注目
なにが起きた?横浜市の新指定文化財、その中身が想像以上に濃い
横浜市が新たに市指定文化財として指定したのが、「銅造 聖観音菩薩坐像」です。関連展示も始まり、歴史ファンの間で話題になっています。
横浜というと、どうしても開港以降の近代史が目立ちます。ペリー来航、外国人居留地、港町の発展。ですが、今回注目されているのはそれよりはるか昔、中世の祈りです。
この像が評価された最大の理由は、制作年がはっきりしていることです。像の体部背面に刻まれた銘文から、南北朝時代の延文2年(1357)11月の作であることが分かっています。制作年が明確な金銅仏は決して多くありません。
さらに、この像が置かれてきた寺院の歴史や、観音信仰との関わりも含めて総合的に評価され、市指定文化財となりました。
単なる「古い仏像」ではありません。年代、信仰、地域史が重なり合う存在です。

石橋山合戦とは何だったのか
石橋山の戦いは1180年、伊豆で挙兵した源頼朝が平氏方に敗れた戦いです。
この戦いは、のちに鎌倉幕府を開く頼朝にとって大きな挫折でした。兵力差もあり、戦況は不利。頼朝は敗走し、安房へ逃れます。
しかしここからが歴史の面白いところです。敗走の後、関東武士たちの支持を集め、勢力を立て直し、やがて鎌倉入りを果たします。結果として、石橋山は「敗北」でありながら、日本史の転換点となりました。
史料『吾妻鏡』には、頼朝が正観音像を念持仏として身につけていたこと、敗走時に岩屋へ安置し、のちに取り戻したという逸話が記されています。細部の史実性は慎重に見る必要がありますが、頼朝が観音を篤く信仰していたことはよく知られています。
今回指定された聖観音菩薩坐像は1357年の作ですから、頼朝の時代そのものではありません。ただし、武家と観音信仰という流れの中で、この逸話と重ねて語られ、注目が高まっています。
銅造・聖観音菩薩坐像とはどんな仏像か
聖観音は観音菩薩の基本形です。一面二臂の穏やかな姿で表されるのが特徴です。
今回の像は銅造、いわゆる金銅仏です。像高は31.9cm。両手の動きが印象的で、未開敷蓮華を持ち、その花弁を開こうとする姿が表されています。これは儀軌に説かれる聖観音の姿に沿うものとされています。
小ぶりですが、表情は端正で落ち着きがあります。衣の表現は簡潔ながら丁寧で、宋風の影響を感じさせる造形と評価されています。
鋳造仏は木彫とは異なり、鋳型を使って金属を流し込んで作られます。技術が必要で、制作には相応の資金と信仰心が背景にあったと考えられます。
南北朝時代という背景
この像が作られた1357年は、南北朝の対立が続く動乱期です。武家政権の正統性をめぐって争いが起き、各地で戦乱が続いていました。
そんな時代に観音像が鋳造され、信仰の対象として祀られたことは象徴的です。観音は苦しみを救う存在とされます。不安定な社会状況の中で、人々は救いを求めました。
頼朝の挙兵から約180年後の時代ですが、武家社会と観音信仰の結びつきは続いていました。鎌倉期に広がった武家の観音信仰は、南北朝期にも受け継がれます。
この像は、その流れを具体的に示す証拠の一つです。
来歴と寺院との関わり
この像は横浜市内の寺院に伝来してきました。長い年月、地域の中で守られてきたことが分かっています。
銘文があるため制作年が確定し、様式や保存状態とあわせて評価が固まりました。文化財指定は、年代の確かさ、歴史的意義、地域性などが総合的に判断されます。
今回の指定は、単に古いからではありません。南北朝期の銘を持つ金銅仏であり、観音信仰の歴史や地域の寺院史と深く結びついている点が評価されています。
展示はどこで見られる?
展示は横浜市歴史博物館で開催されています。
横浜市歴史博物館は、古代から近代までの横浜の歩みを紹介する施設です。今回の文化財展では、新たに指定・登録された文化財が紹介され、その中核の一つがこの聖観音菩薩坐像です。
実物を見ると、金銅の質感や細かな造形がよく分かります。約32cmというサイズは、威圧感というよりも親しみを感じさせます。念持仏に近い距離感です。
SNSでの反応と冷静な視点
SNSでは、「横浜にこんな中世の仏像があったのか」という驚きの声が見られます。横浜=近代というイメージが強い分、中世文化財の存在は新鮮に映るようです。
一方で、「頼朝の念持仏そのものなのか?」という疑問も出ています。ここははっきりさせておく必要があります。
今回の像を、頼朝が実際に身につけていた念持仏と断定する史料はありません。頼朝が正観音を信仰し、石橋山合戦に関する逸話があることは史料に見えますが、像そのものとの直接的な結びつきは確認されていません。
歴史記事としては、この線引きを明確にすることが大切です。逸話は逸話として紹介し、史実と混同しない。そこが信頼につながります。
仏像を見るときのポイント
仏像は難しく考えなくて大丈夫です。
まずは表情を見る。
次に手の動きを見る。
そして、その像が作られた時代を思い浮かべてみてください。
1357年。南北朝の動乱期です。戦乱の不安の中で、人々は観音に救いを求めました。
頼朝の石橋山敗走という物語とも重なります。武家社会と観音信仰。敗北と再起。祈りと現実。
一体の像の背後に、800年近い歴史が詰まっています。
まとめ
横浜市の新指定文化財「銅造 聖観音菩薩坐像」は、南北朝時代・延文2年(1357)銘を持つ貴重な金銅仏です。像高31.9cmの小像ながら、歴史的背景は重く、観音信仰の流れを今に伝えています。
石橋山合戦での頼朝の正観音逸話と重なり、武家と観音の関係が再び注目されています。ただし、像を頼朝の念持仏と断定する史料はありません。この点は冷静に押さえておく必要があります。
横浜の歴史は開港だけではありません。中世の祈りが、今も確かに残っています。
歴史は遠いものではありません。目の前の一体の像から、時代の息づかいが見えてきます。
参考・引用記事
・「源頼朝『石橋山合戦』の逸話からも注目 横浜市の新指定文化財・聖観音菩薩坐像など公開」
https://news.yahoo.co.jp/articles/59cfa4e0f0e6291a60f0fba56d3599243eca0a99
・横浜市記者発表「令和7年度 横浜市指定・登録文化財の指定について」
https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/koho-kocho/press/kyoiku/2025/1205bunkazai.html
・横浜市文化財保護審議会資料
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/bunkazai/bunkazai/bunkazai.files/0091_20260127.pdf
・横浜市歴史博物館公式サイト
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/koudou/see/










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